【スローライフ阿寒】

自然の中に置かれると人は何を、どう、考えるのか、ゆっくり対話しながら生きたい

 「村」のイメージ!

「あなたがもつ春のイメージって、どういうもの?」
こんな質問を団塊の世代の人たちにぶつけたことがあった。
圧倒的に多かったのが、「牧場にね、小川が流れてて、牛がのんびりモーッと啼いてる、そういうイメージだね。」。どの答えも似かよってた。小川と牛が登場する。

チョッと待てよ、これって小学一年生の国語の教科書、それも最初のページそのものじゃないか?「春」のイメージはどうやら、教科書によって形成された定型イメージのように思えた。
「村」にも似たようなイメージ形成の素があるのだろうか?
実は、「村」という響きが大好きだ。「村」で生まれたせいかもしれない。
物心ついた頃は、時間がのんびりと動いてた。大抵の家の裏に畑があって、野菜づくりしていた。どの家にも鍵は掛かってなかった。
子ども達は平気で他の家を通り抜け、他人の家という概念がなかった。悪さをするとどこのオジサンにでも、「この餓鬼め!」と叱られた。
どうやら、自分の「村」イメージ形成の根は、こんなところにあるらしい。もう、半世紀以上前も前の話だ。
勿論、今の阿寒町とは風景も時間のたちかたも違う。だが、似てるとも思う。

「村」は言うまでもなく地方公共団体のひとつ、集落と理解されてる。
だが、本来的には「群れ」「叢」と同じく、「大勢が群がり住むところ」という意味だ。
最近では「屋台村」「ペンション村」など、行政区画の線を超えて転用されることも多い。
企業だって、同じ利益目的で群れを成してることを考れば「トヨタ村」とか「日産村」と言うことだってできるわけだ。
だが、「村人根性」とか、「村役人」とか、「村」を卑下するコトバや、人が多いのも事実だ。
この人たちのイメージする「村」は、「情報に遅れてる」「泥まみれだ」「ノロイ」「群れているだけで何にもできない」等々なのだろうか?実は、それもひとつの価値なんだけどなぁ。
「村」のイメージは人によってさまざまだ。
「あなたの「村」のイメージはどういうものですか?」


ところで、夢を食べる動物、タピラスが暮らす「タピラス村」はどうなってるだろうか?
チョッとだけ覗いてみよう。