【スローライフ阿寒】

自然の中に置かれると人は何を、どう、考えるのか、ゆっくり対話しながら生きたい

共生の難しさ!

「人と自然との共生」「民族と民族の共生」
ここ十数年、環境関連書籍のみならず、新聞やTVのニュース、さらには広告で“共生”という言葉を見かけることが激増した。
その“共生”を目の当たりにするシーンに、先日2度出会った。

最初は友人に会うために出かけた阿寒→標茶(しべちゃ)線の道路脇だった。
まだ枯れ切ってない牧場の隅に突然、特別天然記念物のタンチョウが4羽出現した。というより、餌を啄んでた。慌てて車を停め、息をひそめて近づく。だが彼らは動じる様子もなく、むしろ道路に出て近づいてくる。その距離10m。カシャッ!カシャッ!
「まるでタヒチの女の子みたいだ、観光客が自分たちをモデル代わりに撮影するのを知ってる」

二度目は、ウチの庭だった。お茶を飲んでる時、灰褐色の一団がやってきた。もうお馴染みのエゾシカだ。これも家の中から窓を通してカシャッ!一頭は家の中の動きに気付いたようで、コチラをジッと見てた。
まさに「人と自然との共生」。国境や境界線を取り払い、“共に生きる”最たるシーンだ。
だが、これが本当に“共に生きる”ということなのか?エゾシカは増えすぎて森林被害や農業被害をもたらし、害獣に指定されてる。
一時は38羽にまで減少し、絶滅寸前だったタンチョウも住民の努力で1000羽を超えるまでに回復し、釧路湿原は住宅難になったという。道南への移住組も目立つようになった。
もともと“共に生きる”のは難しい。
人間なぞは、将来を固く誓ってゴールインした男女でも、暫く時間が経てば“共に生きる”とは言いがたくなる。人類学者ヘレン・E・フィッシャーの「愛はなぜ終るのか」によれば、その賞味期限は4年だという。
「国家、民族の共生」ともなれば、もはや解決の道筋さえ見つからぬ険しき道だ。
“競争”から“共生へ”。生物が何とか生命をつなげていくためには、生物学を超える最適なルールを探り続けていくしかないのかもしれない。実に険しい道だ。