【スローライフ阿寒】

自然の中に置かれると人は何を、どう、考えるのか、ゆっくり対話しながら生きたい

日本人の「ふるさと」の原風景は、どこ?

※一昨年、東日本大震災の被災者の悲しみにもっとも寄り添ったのは、唱歌「ふるさと」と言って間違いない。避難施設を慰問した世界的な指揮者はじめ、著名なミュージシャンは殆どがこの歌を演奏し、避難者たちだけでなく、日本中の人々が大粒の涙を流した。歌の中に地震津波で失った「ふるさと」があったからである。

(春の光を満身に受けて、牧場の電線ケーブルの支柱に留まった野鳥。ウグイスと思われる)
※この曲の作詞者は高野辰之、作曲家は岡野貞一。二人は二人三脚で「春の小川」「朧月夜」もつくった。いずれも1914年、第一次世界大戦勃発の年に小学校唱歌として発表され、以来100年もの間、世代を超えて歌い継がれてきた。日本の名曲三部作と言っていいだろう。
※高野辰之は、1876年(明治9年)長野県豊田村(現中野市)で生まれた。不肖ワタクシの出身地、小布施とは千曲川を挟んだ対岸の村である。
千曲川新潟県に入ると信濃川と呼び名が変わる)は、善光寺平と呼ばれる盆地の真ん中をゆったり流れ、周囲の峻嶮な連山とは裏腹に果樹園や菜の花畑、稲作など多様性に富んだ農地が、なだらかな傾斜地に横たわる。彼はそこで幼少期を過ごした。

(緑の牧場を移動する乳牛の群れ。信州でも山田牧場に行けばこんな風景が見られる)
※♪菜のは〜なばたけ〜に 入日うすれ〜♪で始まる唱歌「朧月夜」は、まさにここの風景を歌ったものだ。還暦世代には懐かしい「春の小川」も、ここの風景と言って差し支えない。
※長野県はかつて極めて貧乏だった。田畑の相続分割をしないために次男、三男にチョッとした教育を付け、小役人としてお江戸へ送り出した。長野県がかつて「教育県」と呼ばれたのにはそういう背景がある。
※送り出された次男、三男の望郷の念は凄まじかった。それが唱歌「ふるさと」の三番の歌詞、♪志を果たして〜 いつの日にか還らん〜♪に見事に集約されている。そして、この唱歌は、帰るに帰れない悲しみを背負って歩まなければならない避難者たちの心に深く沁み入った。

(人懐きのいいこの牛は、人間のために乳を出し続けることにのみ生きてる。哀しい目がこちらを見ている)
※100年もの間、日本人の心の「ふるさと」のイメージを形成してきた「ふるさと」の原風景はどこか?もう言うまでもなく、不肖ワタクシの出身地小布施を含む、北信濃善光寺平の風景なのである(…と、自分では思い込むことにした)。そしてその光景が最近、自分の血と肉のかなりの部分を構成してることに、気が付いた。
※う〜む、「ふるさとは遠くにありて思ふもの」じゃなく、「身の中にありて思ふもの」なのかもしれない。