【スローライフ阿寒】

自然の中に置かれると人は何を、どう、考えるのか、ゆっくり対話しながら生きたい

 「平和祈念日」!

終戦じゃない!敗戦だ!」。叔父は吐き捨てるように言った。「降伏したんだから敗戦と言うべきだ!」。
この言葉は少年の胸に深く突き刺さった。「誰もが“終戦”と言ってるけど、実は“敗戦”だったんだ!」。13歳、53年前の8月15日のことである。
ところでこの8月15日、例年の如く各地で『終戦記念日』の式典がしめやかに開催された。それにしても、何故『終戦』記念日とネーミングしたんだろう?

(66年前の8月15日、釧路のコスモスは本州より一足早く咲いてただろうか?)
欧米では、毎年9月2日に行われるMemorialを“V-J Day"(Victory over Japan day)と呼んでいる。つまり「日本に勝った日=戦勝記念日」と言うわけである。
欧米では“勝った日”、一方、日本では“終わった日”。この認識の差は大きい!
1945年7月14日、15日の二日間、釧路は米軍の大空襲を受けた。2日間で延べ141機のB29が来襲、死亡192名、重軽傷276名、罹災家屋は1374戸に及んだという。
その一ヵ月後、被災者やその家族はどんな思いで「玉音放送」を聴いたのだろうか?コスモスや萩の花は咲いてたのだろうか?
15日、釧路でも「釧路戦没者追悼式並びに慰霊大祭」が護国寺神社で開催された。靖国神社には、閣僚を除く超党派議員53名が参拝した。いろいろ議論はあるだろうが、この際『終戦』という呼び方の変更を考えたらどうだろうか?
まさか『敗戦記念日」とは言えないだろうから、例えば『平和祈念日』というのはどうか?これなら、靖国問題にも一筋の道を拓くことができるんじゃないか?

(忍び寄る秋の気配、人々はどんな思いで玉音放送を聴いたのだろう)
もっとも、英霊や遺族には「とんでもない!」と叱られるやも知れぬ。この辺でやめておこう!
ネーミング問題はさて置き、後世に平和な日本を残してくれた戦没者に思いを馳せながらながら・・・献杯
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