【スローライフ阿寒】

自然の中に置かれると人は何を、どう、考えるのか、ゆっくり対話しながら生きたい

「ピカドン」

疎開先で生まれた。戦中派である。子供時代、辺りにはまだ戦争の匂い(傷痕)が漂ってた。物置には船乗りだった親爺の鉄兜や、錆びた拳銃が剝き出しで放置されてた。菰で包んだ軍刀も保管してあった。防空壕や、防空頭巾と呼んだ綿入れの頭巾もあった。

(暴風雨の翌日、木々には「ピカドン」の爆風を受けたが如き傷痕が)

※男の子達は「かいせ~ん」という集団陣取り遊びに夢中になり、その遊びの中には相手に摑まると「ピカドン」と2回叫べば無罪放免になるルールが組み込まれてた。「かいせ~ん」は「開戦」であり、「ピカドンは原爆」だったのを知ったのは後のことだ。

※2発の「ピカドン」には「愛称」があった。「ヒロシマ」は「リトルボーイ」、「ナガサキ」は「ファットマン(太っちょ)」。それを知ったのは学生時代。さらに広島・長崎以前、日本各地にソイツ等が模擬実験されてたのを知ったのはわずか20年程前だ。

※日本各地に模擬原爆が落とされたのは49発。▲1945年7月20日~8月14日(広島・長崎以後も落とされた)。茨城、富山、大阪等、全国18都府県。被害者400人。なぜ、模擬原発を49発も?そりゃ簡単、現代同様、予行演習のためだ。本弾3発目も用意してたと言う。

 

(最も恐れてたことが起こった。ウチの「原爆」が編戸に立派な爪跡を残してくれた)

 

※8月15日は「終戦記念日」だった。この日が来る度に母親は繰返し言った。「お父さんは戦争が始まった途端、この戦争は負けると言ったのよ」。牧師をしてた叔父は言った。「終戦じゃない、敗戦だ、事実を伝えてない」。さて、自分は何を伝えれるのか?

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※30年近く前の話だ。当時20代前半の女の子は言った。「エッ、日本はアメリカと戦争したんですかっ?」・・「エッ、知らないのっ?」腰が抜ける程愕然とした。「ピカドン」は、もはや死語である。リアルな語り継ぎは、三世代位までか!さて、プーチン戦争犯罪は後世に伝わるのか?ネタニアフの人道国際法違反は語り継がれるのか?「ピカドン」を例に挙げるまでもなく「記憶」より「記録」が大切な時もある。