【スローライフ阿寒】

自然の中に置かれると人は何を、どう、考えるのか、ゆっくり対話しながら生きたい

 「 もうひとつの時間」

「お忙ぎのところ誠に申し訳ありません。途中駅で車両故障があったため、現在この電車は17分遅れで運転しております。お客様へご迷惑をおかけしておりますこと、心よりお詫び申し上げます」。
在京中の出勤時、こうしたお詫び車内放送を度々聞く。殆どの乗客が諦め顔で押し黙ってる中、「チッ!」「またかよ!」などと、露骨にイライラしたり、体を動かしたりする人たちがいる。
心理学者のフリードマンたちは、こういう人たちを先進国に多い性格―“タイプA”と位置づけた。
“時間的切迫感”、つまりジッとしていることが嫌いで、次の行動に移らないと気がすまない人たちである。一方、その対極にある人たちは“タイプB”。マイペース、のんびりや、というのである。
どうやら人間には、時計が指し示す物理的な時間とは違った「もうひとつの個的な時間」があるらしい。
「じゃあ動物は、物理的にせよ、個的にせよ、“時間感覚・概念”を持ってるんだろうか?」友人と酒の上の議論になったことがある。
“時間感覚ある派”の友人は主張した。「だって、動物だって心臓が動いてる。である以上、生命には時間があるってことじゃない?」う〜む、そうかもしれない。でも、あれは時間感覚じゃなくて、生理的な鼓動があるだけじゃない?
「だからさあ、サーカディアン・リズムっちゅう体内時計があって、それは時間感覚と言えるんじゃない?」

でもさあ、長田弘は「猫には未来がない」って本、書いてたじゃん。…議論は延々一時間も続いた。いや、実は今でも続いてるのだが、その時の結論はと言えば、「動物にも時間感覚があるにはあるが、時間の概念はない!」という禅問答に近い曖昧なものだった。
阿寒に戻ると、時間はもう少しシンプルになる。コチラじゃ、時間はクルマでの移動がモノサシだ。
1km、1分。行き先が30km先なら、30分前に出れば殆どピタリと到着する。個的な時間と物理的な時間とが殆ど一致するのだ。
もしかしたら、コチラじゃクルマはカラダの一部=体内時計の役割を果たし、それが物理的な時間と一致するのかもしれない。だが、果たしてそこには時間の概念があるのだろうか?皆さん、どう思います?