【スローライフ阿寒】

自然の中に置かれると人は何を、どう、考えるのか、ゆっくり対話しながら生きたい

網走紀行1

※前日の暴風はぴたりと止んで、極上の天気だった。絶好のドライブ日和だ。午前10:00。約150km程北の、オホーツク網走に向けて出発した。同居人と旅するのは何年ぶりだろう?

(釧北峠に残る廃線「あいおい駅」雪景色だった)
※何年かぶりの小旅行が何故、流氷期でもない網走だったのか?理由は簡単だ。JALマイレージをクーポンに換金し、そのクーポンが使える旅館は網走と十勝川温泉だけだったからだ。
※網走と言えば、何といっても「網走番外地シリーズ」や「幸せの黄色いハンカチ」など映画でよく知られる「網走刑務所」と、2〜3月期の流氷観光といっていいだろう。

(博物館網走監獄エントランス。網走郊外天都山の一角に移築された)
※「網走刑務所」は、北海道開拓のため囚徒を労働力としたことで知られてる。明治政府は、社会的混乱で激増する犯罪者収容所とロシア南下を食い止めるため、明治14年「釧路監獄署網走囚徒外役所」(後の網走監獄)を開設、懲役15年以上の囚徒1200人を移送した。

(監獄房舍。5本の房舎が扇のように開き要の部分に監視塔がある)


※囚徒は中央道路等の建設のため、肢を鎖で繋がれ強制的に働かされ、中央道路は北見峠まで160kmをわずか1年でつくりあげた。その間栄養失調や事故で約200人が犠牲になったという。
※一石二鳥を狙った明治政府の意図は、その後の開拓民や入植者の流入で現在の北海道の礎となったのは間違いない!が、囚人道路とも呼ばれたこの道路には暗い歴史があることも否めない。昭和まで彼らの過酷な労働を暗示する「タコ部屋」という言葉が残ってたそうだ。

※今回訪ねたのは現在の「網走刑務所」じゃない。網走監獄保存財団が運営する「博物館網走監獄」である。
※1973年(昭和48年)に網走刑務所の改築計画が公表された際、貴重な建築物が失われることを憂慮した網走新聞社(現在は廃刊)社主の佐藤久が、刑務所建築物の移築保存を提唱。
※その趣旨に網走市、北海道、法務省などの関係機関も協力し財団法人を設立、東京ドーム3.5個分という現在の地に移築。重要文化財5、有形文化財3という貴重な歴史が残った。


(中央道路工事の地図と囚徒数、犠牲者数)
(休泊所。日帰りできない場所に仮設した)
  (清潔を保つための入浴シーン)
    (独房)

※北海道のある意味での繁栄が、彼らの苦役の海に浮かんだ大きな船であることは間違いないっ!それを思うと心が痛い!我々は、120年後の日本に人間として何を残せるんだろうか?

★「博物館網走監獄」の公式ホームページのURLを載せておいた。覗いていただくのもいいかもしれない。
http://www.kangoku.jp/#